豊島屋酒造

 東京都東村山市の住宅地に溶け込むように存在する酒蔵、豊島屋酒造さんに2020年10月、令和2年度の酒造りが始まって間もなくの頃、取材に伺いました。



 豊島屋酒造さんを訪問させていただくのは今回で2度目。1度目は今から8年前の2012年、私が日本酒講師として自身の教室を立ち上げてまだ間もない頃でした。その年、都内のスクールでセミナーを開催しなくてはならなくなり、日本酒業界のご意見番に相談したところ、都内のとある酒販店さんをご紹介いただき、その酒販店さんからご紹介いただいたのが豊島屋酒造さんでした。「きっと力になってくれますよ!」の一言を胸に、一人、恐る恐る伺ったのを覚えています。電話でいきなりのお願いにもかかわらず、快諾していただき、対応してくださったのは、豊島屋酒造四代目、営業部長の田中孝治さんです。

 その日、少し日が傾いた頃に伺ったからなのか、蔵は静まり返っていました。誰もいらっしゃらない事務所に通され、ポツンと座り、田中さんが戻られるのを心細く待っていました。しばらくして事務所に戻ってきた田中さんの手には大量の日本酒。ご自身が手がけたブランド「屋守(おくのかみ)」をはじめ、豊島屋酒造が手がけるあらゆる銘柄を並べ始め、「是非テイスティングしてほしい」と。同時に、ご自身が酒造りに目覚め、新たな酒造りを目指し、そして初めて手がけた「屋守」の誕生秘話を熱く語ってくれました。熱い男、田中さんです。

 あれから8年、この「醗酵の時間」のサイトの立ち上げを機に、再び豊島屋酒造さんを訪問させていただきました。

 蔵の門前のケヤキの大木は相変わらず見事でした。以前と変わっていたのはリノベーションされた直売所。<醸しの場>と命名された素敵な空間に変身していました。既に5年が経つそうで、その時、1度目の訪問から5年以上経過していたことにはじめて気付かされます。少しずつ物事が変化しつつある中、田中さんは以前と変わらず熱い男そのままでした。またあの日のあの熱いお話を聞かせていただきたく、語っていただきました。

 豊島屋酒造の創業は昭和初期。しかしそのルーツは400年以上も前の1596年まで遡ります。現在、東京神田にある豊島屋本店の初代・豊島屋十右衛門が、江戸神田の鎌倉河岸で酒屋兼一杯飲み屋を始めたのが「豊島屋」の興りで、後に豊島屋から豊島屋本店となり、その醸造部門として、昭和初期、東村山の地に酒蔵を構えたのが豊島屋酒造です。豊島屋酒造では、明治天皇の銀婚式にあやかって命名され、東京二大神社、明治神宮、神田明神の御神酒として奉納される「金婚」をはじめ、豊島屋の創業者の名前から付けられた「十右衛門」、その初代十右衛門が、のちの桃の節句のために醸造を始めた「豊島屋の白酒」、醸造用糖類無添加のみりん「心」、そして田中さん渾身の酒「屋守」が造られています。

 歴史ある稼業を継ぐことに抵抗感があったという田中さん。何が何でも敷かれたレールになんて乗るものかと、一人抗っていたそうです。人は素晴らしいレールを用意されていると抗いたくなるのでしょうか?これまでも代々続く蔵取材で同じようなフレーズをよく耳にしました。しかし不思議なことに、皆さんレールに戻りたくなるような劇的な出会いがあり、結果、今まで以上の熱量でレールの上を走っているのです。田中さんもそのお一人。

 田中さんには3つの大きな出会いがありました。
1つ目は「醸し人九平次」。いつも行くお店がお休みだったため、初めての居酒屋に行ってみたところ、そこで出されたのが愛知県のお酒、醸し人九平次だったそうです。そのお店には日本酒以外のお酒は無く、百科事典並みの分厚いメニューに、日本酒の銘柄がビッシリ。田中さんは酒蔵で働いてはいるものの、メニューにある酒の銘柄は全く分からず、女将を呼び、お勧めを聞いて出してもらったのだとか。何も知らない田中さんは「へぇー、九平次っていうんだ」とそんな程度だったそうです。全国にある酒の銘柄をほとんど知らず、当然酒の味も分かっていなかった田中さんですが、分からないながらも、醸し人九平次は旨い、何かが違うということを肌で感じ、酒のレベルの差を痛感したそうです。同じ人間なのにそのレベルにたどり着け無いのはどうしてなのか?そんな疑問を抱きながら、酒造りへの興味がふつふつと湧き始めたそうです。

 田中さんは稼業に就いて間もなく、お父様から広島の西条にある酒の研究機関「酒類総研」での修行を勧められます。しかし勧められるがまま飛び込んだものの、専門用語も分からず、何の授業をやっているのかも分からずの毎日だったそうです。そこに参加する方は酒造業界で経験を積まれた方ばかりで、「素人は俺くらいだったよ」とおっしゃっていました。年齢的にも年上の方が多く、同部屋になった方は一回りも上の、宮城県平孝酒造の平井さんだったそうです。平井さんに手取り足取り教えていただいたことや、同じ時期に学んだ仲間達との出会いがとても大きかったようです。2つ目の出会いです。

 その後、広島で同じ釜の飯を食べた仲間たちの酒が、次々と有名グルメ雑誌に取り上げられるようになり、田中さんは同期の活躍を大いに喜んだそうです。そして、それがやがて自分への苛立ちや嫉妬に変わり、そのエネルギーが田中さんを大きく動かしていきます。

 東京市場に、地方の旨い酒が席巻する状況を一番近いところで見ている自分は、なんのアクションも起こせていない、そう悩み考えたそうです。そして再び平井さんに連絡を取り、会いに行き、朝まで酒を酌み交わしながら思いの丈を話し、同じような経験をされている平井さんから沢山のアドバイスをいただいたそうです。3ヶ月も同部屋で過ごし田中さんの性格をよくご存知の平井さんは、そこを踏まえ、大胆なアドバイスをされたのです。

 まず得意先を見つける。取り扱ってもらいたい酒が今はなくても先方に熱い思いを伝える。その年酒造りを頑張って、出来上がったら真っ先に持って行き判断してもらう。ダメだったら仕方ない、でもきっと山は動く!と。凄いの一言です。

 どの業界でもそうですが、通常、得意先を開拓する場合、サンプル商品ありきです。それを見て触って味わって決めてもらうわけです。ですが、田中さんの熱い思いのみで勝負することを勧め、そしてその熱量をきっと分かってくださるだろう酒販店さんを指定し向かわせたそうです。

 勝負する材料は熱い思いのみ。その溢れ出る熱量を受け止めてくださったのが、聖蹟桜ヶ丘にある酒販店、小山商店さんです。3つ目の出会いです。

 4月まで待つとおっしゃった小山商店さんとの約束通り、春に出来上がった酒を持って行き、利いていただいたところ、「粗削りで改良の余地はあるが、一つずつ工程を見直せばきっと良い酒になる。だから頑張れよ。よし、この船に乗ってやる!」そんな言葉をかけていただいたそうです。胸が熱くなる瞬間、屋守の誕生です。

 しかし小山商店さんから銘柄名の重要性を指摘されるまで、実は田中さんは豊島屋酒造の既存の銘柄「金婚」の名でいくつもりだったそうです。既に世間でのイメージが出来上がっている「金婚」では思いが伝わらない。どれだけの熱い気持ちでうちの門を叩き、製造部を説得し、この酒を造ったかをよく考え、名前をつけなければダメだと。

 田中さんが命名した「屋守(おくのかみ)」。この名前には、傾きかけた豊島屋酒造を守る、(屋)を守る、そしてお得意様の屋号、(屋)を守る、そんな思いが込められています。この酒で勝負し守っていくんだという熱い思いが伝わる素敵な名前です。この名前を聞いた小山商店さんの反応は、言わずもがなですね。

 小さなタンク1つから始まった屋守。それが今では蔵全体の生産量の約半分を占め、330石までに。特約店も北は北海道釧路から南は九州大分まで、全国で40軒にまでなったそうです。しかし田中さんはまだまだとおっしゃいます。これからどうなっていくのか、さらなる飛躍を期待します。

 取材の最後に田中さんの今後の思いを伺いました。

 「日本酒がハレ日だけではなく、日常に普通にある存在になってほしい。そのためにこの立地を活かし、この蔵から地域の皆さんに発信していきたい」。

 以前はこの立地にコンプレックスを感じていたといいます。旨い酒を造る蔵はどこも風光明媚なそんな環境のところばかり。人はその環境も含め、あの蔵に行ってみたい、飲んでみたいとなる。果たして東京の住宅地にある蔵はどうなのだろうかと。

 今は逆転の発想から、人の往来の多いこの立地を最大限に活かし、住宅地にあるからこそ出来る、地域密着型発信をしていきたいとおっしゃいます。醸しの場にふらっと立ち寄れば、いつでも誰かがいて、おしゃべりが出来たりお酒が飲めたり、中庭のスペースには、地元の農家さんの採れたての野菜があったり、フリーマーケットのブースがあったり。時には映画館、時にはクラブハウス、ビニールプールにヨーヨーを浮かべてお祭りだってしたいと。一人でも家族で来てもそれぞれが楽しめて、時にはホッとする憩いの場、時にはワクワクするテーマパークのような、地域の皆さんにとって垣根を越えた存在になれたら嬉しいと。そしてこんなことも。「例えば、ここで遊んでいた子供達がお酒を飲める大人になった時、もう日本酒が当たり前の存在になっているでしょ?特別なものではなく普通に飲んでくれるでしょ?そしてまたその子供が酒蔵で遊んで育ち、大人になったら日本酒を飲み、またその子供達がって繋がっていくでしょ?子供の時からここで育てるのよ」とちょっといたずらっぽく楽しそうに話してくれました。



 蔵の門前にある大木は、水脈が豊富である証。地下150mから汲み上げられるキレイな井戸水で豊島屋酒造の酒は醸されています。風光明媚でなくても旨い酒を造る蔵はあり、住宅地にあるからこそ出来る取り組みがある。期待したいです。

 田中さんの思いの詰まった酒と豊島屋酒造はこれからもこの地で人と人とを繋ぐ役割を担っていくでしょう。一消費者、一ファンとして末長く応援していきたいと思います。