弓削多醤油

 20209、コロナ禍の中スタートした「醗酵の時間」プロジェクト。紆余曲折ありながらも少しずつ形となり、昨年4月に一緒に作って学べるキッチンスタジオが東京恵比寿に完成し、5月にHP7月にはSNSでの発信がスタートしました。正直キッチンスタジオでの講座の開催が難しい時期もありましたが、現在はお陰様で、毎回ほぼ満席の状態です。安心してお越しいただけるよう、少人数制で徹底した感染対策のもと行なっております。

 少しずつ認知していただけるようになった醗酵の時間ですが、とにかくゼロからのスタートでしたのでプロジェクト発足当初は何もなく、あるのは熱い気持ちのみでした。日本の醗酵文化を担う蔵に足を運び、醸造家、造り手の方の想いを伝えたい!その熱い気持ちだけを携えて、取材用の機材など無く、身一つで真っ先に伺ったのが、埼玉県にある弓削多醤油さんした現在、醤油製造業は全国で約1100軒ありますが、製麹から一貫製造を行っているのは200軒ほどだと言われています。その数少ない一貫製造を行っている弓削多醤油さんにどうしてもお話を伺いたく、無謀に飛び込んだのが今から1年半前のことです。あの日のことを思い出すと今でも冷や汗が出ます。案の定、その日の取材は空回り。醤油ソフトクリームをご馳走になって帰ってきたのを覚えています。結局その後23訪問させていただきました。毎回優しく対応してくださったの、弓削多醤油4代目社長、弓削洋一さんです。昨年11月、まもなく100周年を迎える弓削多醤油さんに3度目の正直、今度こそ取材用機材をしっかりと携え、ぎゅっと詰まった100年史を贅沢にも取材させていただきました。

 元々弓削多家は地主であり、米、大豆、麦など作る農家だったそうですが、醸造学に大変興味があった初代であるお祖父様が醤油蔵を購入したことで醤油屋になったそうです。お祖父様が本格的に醤油、味噌蔵を興したいと考えられていたころ、現在の入間市にあった親戚筋の醤油蔵が売りに出ているのを知り、3,000円で購入したそうです。3,000円は今の貨幣価値に換算すると900万円900万円ですからね、家も買えない金額ですからね」と笑いながら説明する弓削多さん。破格の3,000円で購入した醤油蔵から弓削多醤油の歴史はスタートします。入間の醤油蔵にあった一切の道具を牛車で運び出し、職人さん呼び寄せ、全てを受け入れ、大正12(1923)、現在の坂戸市で醬油・味噌蔵を創業されました。100年史の始まりです。時代背景と共に振り返ります。

 醤油は私たち日本人の食生活において、なくてはならない大切な存在ですが、あまりにも身近過ぎて気にせず使っている方多いはずラベルに記載されている意味もなんとなくで購入しているのではないでしょうか。今ではラベルに当たり前に記載されている「丸大豆醤油」という名前。その意味はその名の通り、丸ごとの大豆で造る醤油を意味しています。醤油の原料は、大豆、小麦、塩なのでわざわざ丸大豆と記載する必要などないはずですが、なぜ記載されているのでしょうか?それは、丸ごとの大豆でない加工されている大豆が主流になっているからです。醤油のの字は大豆に含まれている油を意味しています。その油はもろみ圧搾時に取り除く必要があるのですが、の工程手間がかかるため、その手間を省くために、予め油を取り除いた「脱脂加工大豆」が開発され、今ではこの「脱脂加工大豆」で造られる醤油が一般的になっています。そのため、記載されるのは丸大豆醤油側になっています。

 と、私は今までセミナーでは使用大豆についてこのように説明してきました。このように学んできましたので、これが大きな理由だと思っていました。ところが、本当の理由はだいぶ違っていました。「手間がかかるため」という理由も1つにはあるのかもしれませんが、本当の理由は、戦中戦後の物資不足によるものでした。

 戦前までの醤油は丸ごと大豆で造るのが当たり前でしたので、丸大豆醬油などという言葉はありませんでした。ですからどの蔵も丸大豆で製造し、当然、創業当初から弓削多醬油も丸大豆で製造していました。しかし太平洋戦争が勃発したことで原料不足が深刻化し、それまで当たり前に使っていた大豆そのままでは使えなくなり、まず大豆に含まれる油を搾油し大豆油(食用油)を作り、醬油造りには脱脂した加工大豆での製造余儀なくされました。配給制のご時世、脱脂加工大豆で造れるならまだ良い方だったそうです。戦後に開発されたアミノ酸液使って調味料を造るところもあったそうです。丸大豆で造りたくても造れず、配給され脱脂加工大豆でしか造る術がなかった時代弓削多醤油も例外ではありませんでした。ところが、脱脂加工大豆は油を取り除く必要がなく、少量の大豆で旨味が出やすいなど、使ってみれば使いやすいと、どの蔵もどのメーカーもこのまま使い続け、丸大豆に戻ることなく脱脂加工大豆時代がなんとお父様が継がれた後の昭和50年代まで続き、その頃にはもはや丸大豆での製造方法を知る人はほぼ皆無になっていたそうです。

 そしてこの間、時代の移り変わりにより、人々の生活スタイルも変化し、昭和40年代からはスーパー、コンビニ時代に入りそれまで個人商店や酒屋から食料品や調味料を購入していた人たちがスーパーやコンビニへと流れはじめますそこ取り扱われる醤油は大手メーカー3社のみ。小さな醤油屋は入り込む余地なく、太刀打ちできず次第に淘汰され全国的に減少していきます。弓削多醤油がある埼玉県の醤油屋も300をピークに減少し続現在なんとわずか7軒だそうです。

 その埼玉県が昭和50年代に入り、この流れをどうにか食い止めようと動き出しま。脱脂加工大豆時代の中、大手との差別化を図るため、原点回帰、丸大豆の研究をスタートさせたのです。戦前までの方法ではなく、発達した技術力を駆使しながら、埼玉県醸造試験場の協力のもと、丸大豆醤油造りの研究進められていきました。この取り組みが功を奏します。世の中は公害による健康問題が多く取り沙汰されていた頃。人々に対する安全性意識が高まり、自然食品を扱う店が次々と出店し始めていたタイミング。脱脂の際に使用する化学薬品を使わない埼玉県の丸大豆醤油が注目され、自然食品を扱う企業から次々と注文をいただけるようになっていったそうです。弓削多醤油をはじめ、埼玉県の小さな醤油屋が各社単独で今でも製麹から一貫製造を行えているのはおそらく、丸大豆醤油に取り組んだことにより活路を見出し、地位を確立することができたからなのでしょうだからと言って醤油業界全体の状況が好転したわけではありません。小さな醤油屋は現在も厳しい状況が続いています。しかし埼玉県の小さな醤油屋にとって丸大豆醤油が大きな強みになったことは確かです。弓削多醤油もこの丸大豆醤油によって救われたのです。

 さて、4代目社長の弓削多さんですが、小さい頃からで遊び、醤油が身近にあることが当たり前の環境の中すくすくと育ちました。物心ついた頃にはすでに周りからは3代目(直系で)と呼ばれていたこと、醤油屋を継ぐことに何の躊躇いも迷いもなく大学卒業後は、別会社で2年ほど修業されたのち、弓削多醤油にすんなり入社します。弓削多さんのようにすんなりと家業に入る方は珍しく、蔵元を取材させていただくと、何かしらの抗いを経てようやくという方が多いのですが、むしろ弓削多さんは待っていましたかのようでした。お話を伺っていても醤油愛をひしひしと感じ、納得します

 弓削多さんが修業から戻ってこられた頃の弓削多醤油の商いの状況は、醤油製造業と並行して行っていた問屋業の方が売上的に上回っていたそうです。しかし取引先の商店や酒屋が時代の波に押され、ものすごい勢いで減少していくのを目の当たりにしたことで、自社の将来を案じ、重きを問屋業から醤油製造業へと大きく舵を切ることとなりました醤油製造業拡大ため、手狭な坂戸の蔵から一部を残し、敷地の広い現在の日高に移すことを決め心機一転、新たな場所での環境を整えるため、少しずつタンクや桶を移していた、お父様が事故に遭います。高さ4mもある醤油タンクからの落下です。地面はコンクリート。一命は取り留めたものの、車椅子生活を余儀なくされ、日常会話も難しい状況に。その頃の弓削多さんの仕事は販売でした。製造のことは何も知りません。製造の中核を担っていたお父様から弓削多の味を教わる前の事故でした。社内にの味を造り出せる人一人いませんでしたこの途方に暮れそうな状況を救ってくれたの昭和50年代のあの時の醸造試験場の方でした。丸大豆醤油の研究を一緒に行っていたことや、醸造試験場内で窒素量を計っていたことなど、長きに渡り交流が頻繁に行われていたことで、弓削多醤油味がどのように造られていたかを把握されていたそうです。一から製造工程を文書に起こし、一つ一つその通りに進め、弓削多の味を復活させました。1998年、この一連の出来事を機に弓削多さんは製造に移、弓削多の味を受け継ぎながら4代目とし奮闘していくこととなります

 弓削多さんがこれまで取り組まれてき代表的なものとして、まず国産有機大豆で造る「有機しょうゆ」ですその当時の弓削多醤油は、一部海外産の有機大豆は取り扱っていたものの、国産は慣行大豆のみだったそうです。取引先であったオーガニック界で有名なポラン広場から国産有機大豆での造りを依頼されたことがきっかけとなり、有機農家とタッグを組み、国産有機大豆での造りを始めることとなりました弓削多さん自身毎月畑に足を運び交流を深めていくうちに大変ながらも有機栽培楽しさを感じていったそうです。契約農家さんをはじめ応援してくださる方々とこのプロジェクト真摯に向き合い取り組んでこられた結果、弓削多醤油の「有機しょうゆ」は醤油本来の旨味がぎゅっと詰まった香り豊かな商品となり、複数の国際審査機構から毎年連続で最優秀クラスの賞を受賞されるほどの商品となりました。平成13年に有機JAS制度が創設された後、「有機しょうゆ」は有機JASに認証され、認証商品となっています。

 次木桶造りによる生(なま)醤油。木桶造りは昔ながらの造りでその蔵やその蔵の木桶に住み着く菌によって造られる醸造方法です。弓削多さんは幼少の頃から木桶の周りで遊んでいたこともあり、その存在が当たり前過ぎて木桶に対してなんの特別感もなく、販売をしていたタンクと造り方が少し違うだけのことだろうという認識でその良さに全く気付いなかったそうです。その良さに気付いたのはだいぶ後、日高に醤遊王国(蔵見学や飲食ができる多目的スペース)を作ってからですしかも気付いたのではなく蔵見学に来られた方々が木桶を見て感動し、木桶醤油を味わって旨いと言ってくれるその姿を見て、気付かされたのだそうです。弓削多さんはこのようにおっしゃっていました。「弓削多の蔵に、そしてその木桶に住み着いている菌によって造られる醤油は、弓削多醤油でしか造れないということ。それを旨いといっていただけるということは、本当に醤油屋冥利尽きますと。その旨いと言っていただける菌を残すため木桶の生醤油火入れ殺菌や菌濾過せず、菌が生きたまま残っている醤油)の販売に踏み切ったのだそうです。生醤油に含まれている酵母(発酵菌)出汁のような旨味を与え、格別味わいになるそうですしかし醤油品質管理が難し大手メーカーでさえなかったほどです。その難しい挑戦を初めて行ったのが弓削多醤油です。大手メーカーが販売に踏み切ったのは、そこから遅れること7年後のことです。現在でも「冷蔵保存必須の酵母が生きている生醤油販売しているところは、弓削多醤油を含め数えるほどしかありません。それほど流通させるのが難しく貴重な醤油を2003年から弓削多醤油では販売しています。

 

 そして最後は弓削多さんにとってとても大事な場所、醤遊王国です色々な思いの中試行錯誤を繰り返し少しずつ整えていきた場所で、弓削多さん自身が木桶の良さを知るきっかけとなった本当に大切な場所です。現在、50石の木桶がずらりと並ぶ醤王国には、貴重な一連の醤油製造工程見て学ぶことができる見学スペースや醤油搾り体験コーナーなどがあり、近所の小学校の社会科見学コースにもなっているそうです。見学中もろみの匂いを嗅いで「臭い臭い」と言う子供たちに弓削多さんはいつも「これが大人になったら良い匂いになるだぞ!」と教えているそうです。いつか子供たちが成長し、大人になった時、この弓削多さんの言葉が「本当だった」と思い出してくれる日を楽しみに待ちたいと思います。そして見学コースの他にも、弓削多醤油の味を体験できる食堂や販売所も設けられており、食堂のメニューには、美味しさがストレートに感じられる「卵がけご飯」や「醤油だんご」、そして1度目の取材の際にご馳走になった「醤油ソフトクリーム」もこちらでいただけます。是非現地に足を運んでいただき、大切に守ってきた弓削多醤油の造りと味を多くの方に知っていただきたいです

 来年2023弓削多醤油は創業から100周年を迎えます。この大事な節目に弓削多さん1番に思うことは、この家業を大切に残していきたいということだそうです弓削多さんはこのようにおっしゃっていました。入間にあった蔵ご縁醤油屋となってまもなく100年です。当時300軒あった埼玉県の醤油屋今ではたった7となってしまいましたが、それでもここまでやってこれたのは、お客さまに美味しいと認めていただき選んでいただいたらだと思っています。だからこの先も醤油屋を家業として大切に残していきたいです」と。その家業としての醤油屋にこだわる熱い想いも同時に語ってくれました「醤油は日本人にとってなくてはならない調味料です。だからこの先もきっと残っていくと思います。ただ、ちゃんと発酵食品として人の手で造っていきたいです。麹も人の手で造りたいし、もろみも人の手で撹拌し搾りたい。地元のここに住み着いている菌とここ暮らす私たちが、この気候風土でなければ醸し出せないものをこの先も造り続け残していきたいのです。」

 弓削多醤油は現在、100周年のために大きなプロジェクトを進めています。そのプロジェクトの1つが「木桶」製作です。この先、100年、200年と続けていくために、「伝統と未来」「今までとこれから」のシンボルとして、醬油を発酵させるための木桶を作ろうと考えたそうです。木桶は100年、150年と使い続けることができます。現在は木桶職人も減少し、木桶を作ること自体が大変な時代となってしまいましたが、数少ない木桶職人の方と、そしてお客様にも手伝ってもらいながら、社員総出で大切な木桶をつくっていくそうです。その木桶に使用する木材は地元産、樹齢120年の飯能杉だそうです。弓削多醤油が創業する20年も前に植えられた杉の木が使われます。これからの100年のためには、100年前の今から、さらに木桶を残すためには、少なくとも200年前から取り組む必要があるのです。伝統産業を継承していくということはこういうことなのです。

 弓削多さんが語ってくださったように、醤油自体はこの先も残っていくだろうと想像できますが、余計なものを加えず、自然環境の中で人の手で造り出す醤油の未来は、今の私たちにかかっています。私たちは100年後の未来を想像することしかできませんが、一つ一つの取り組みが実を結び、弓削多醤油をはじめ全ての伝統産業に明るい100年史が刻まれることを切に願っています。